初めてのeースポーツ(観戦)

福岡方面に行くときはラーメンが楽しみな岩崎です。
今回も会場近くにラーメン屋さんがあったので
昼夜とラーメン頂いてきました。

さて、子供に付き添う形で参加するようになった
Eスポーツのパブリックビューイングですが
どのようなものなんでしょうか?

昔からあったのは格闘技の対戦ゲームで
対戦することがあったのですが
近年はオンラインで世界中の人とつながり
実に多くのeスポーツが誕生しています。

子供がプレイしているのは第五人格って名の
ゲームで内容は鬼ごっこのようなものです。

【5/3(金)開催】IdentityV第五人格 Call of the abyss Ⅶ パブリックビューイング | イベント | 西日本最大級のeスポーツ総合施設【esports Challenger’s Park】 (challepa.jp)

福岡は天神まで行って、ワンフロア全体で
eスポーツ会場で結構にぎわっていました。
パブリックビューイングってテレビで見たことあるのは
サッカーの大会や野球ですが
eスポーツの会場は静かにみている人が多く
良いプレイが出来たときは静かに拍手したり
ちいさなどよめきが起こる程度でした。

ですが、皆さん楽しそうに過ごしていましたよ。

私はちょっとよくわかりませんでした・・。

お茶の時の話

先日、とある小工事を市外で施工した際に
施主さまとお話した時のことです。

私よりかなり年上の施主さまの生まれは満州だと。
うちの親族にも大陸生まれの親戚が数名いるので
生まれた背景はなんとなくわかっている。
昭和初期、戦線を広げた日本はそれぞれの植民地に
自国民を開拓者として送り込み地域の発展
自国領土の保全のために多くの日本人が国を離れ
各地に移った。
うちの親戚らは技術者の祖父が各地を歩き回って
それぞれの地域で子を産み落とした為
大陸生まれの方が数名いるのです。

施主さまも当時、気象台にお勤めであった父が
満州で働いていた縁でこの地に生を受ける。
終戦まで10年間住みついた満州はとても懐かしく
食べ物もおいしかったとお話してくれました。

当時は食べ物もそんなに多くなかったが
家で育てていたかぼちゃやジャガイモなど
とても良くできてそれは好物だったと、そして
スイカやたばこを駅弁の立ち売りスタイルで
販売していたことも教えてくれた。

たばこの銘柄は思えていないが
10本か20本入りできちんと箱に入った形で
販売され、そういう子供たちが無数に広場にいて
たばこ客の争奪戦だったらしい。
おそらく今の時代のように穏やかに商売できている
ような空気ではなかっただろうと当時の心労を
想像するだけで苦労が伝わってきた。

たばこ売りでは年上や体が大きい売り子が
自分の客を強引に奪うため中々商売にならず
これではダメだと職を変え、今度はスイカ売りになった
この時10歳程度らしい、子供も働かないと
食べていけない時代であったのだろうと思うと
働く事と金の事、時間や教育のことを考えざるを得ない。

そういえば昔(約100年前)は無職は偉い人や
財産持ちの象徴だったらしい。
働かなくても食っていけるのは、確かに労働から
解放されている・・・。
いつからか勤労が素晴らしいものになったのか?
いや、、、素晴らしいかな?

スイカは丸々一個を売っていた訳でなく
切り身の状態で売っていて
ハエが寄ってくるのでそれを追い払うのが
仕事だと教えてくれた。
確かに数年前、タイランドに旅行した際
切り身の果物が売ってあるのを見たことある。
なるほど、ああいう感覚なのか、無論、露天である。

今考えると、炎天下の中、切り身のスイカなど
売れるのかと思ってしまうが当時はそこそこ売れていた。
なるほど、満州らしい。

気象台にお勤めの父さまは
たまにお客を家に呼ぶことがあり
その中に同じ気象台に務める後輩が
その日食事に来て泊まって帰った。

その人が藤原さんと言って
その後日本に帰り直木賞をとったと言われたので
自分の周りでは直木賞を取ったなど極力なワードが
出ることがないので(普通ない)
大変驚いた。

「知ってる?新田次郎?」

恥ずかしながら全く知らなかった。
その方と一緒に食事をし(80年ほど前)
同じ空間で睡眠をとった。
私が本が好きだと言ったら
いつか本を送るねと約束し
日本に帰ってくると本当に本が届いたこと。

終戦の日、満州をソ連軍が空爆し
多くの人と建物が破壊され
日本の軍人は庁舎に火をつけ
国民を守ることを放棄し
我先にと列車で逃げた。
満員になった列車に国民が乗ろうとすると
軍刀で脅かし、乗車させなかった。

そういえばソ連は終戦間際に
北方四島を条約違反を犯し
侵略したんだよな、満州でも同じことが
起こっていたことを知って
はやり、国と言う大きな単位では
戦争も国盗りゲームの一環で
リアルシムシティのようなものだ。
小事を気にしていては何もできない理屈の
下のほうの国民の生活では
何が起きようと、あまり大きな関心では
ないのだろうと悲しく思えた。

なので結びの言葉では
国を信用できないとおっしゃっていたのが
その方が得た教訓なのであろう。

そう思うと、人として隣人には
誠実であろうという気持ちになり
平和のため、落ち着き良く考えようと
話を締めくくった。

そして、私はその新田次郎とその息子の
藤原正彦に興味を持ち、今度図書館で
書籍を探してみようと思う。