親子 コミュニケーション その2

大村公園の桜は見ごろを迎えています。

満開の桜も良いですが 散り際のはらはら舞う

そんな桜も大好きです。

この国に生まれてよかった~(季節っていいですね)

さて・・

意思の疎通がコミュニケーションならば

伝える相手と伝え方を考えねばなりませんね。

大人でも意思疎通は難しい。

思ったような言葉が出てこない。

保育園や小学校 中学校 高校

何かの催しの時、

あなたが挨拶をする立場ならどうしますか?

仮にその場でいきなり発言するような事になったら?

・・・・・

言葉は急に出てきませんよね?

思ってもない事は口になかなか出てこないものですよね。

これは訓練や練習によって

定型文を覚え自分で噛み砕いて話すもの、用意しないと

キレイな言葉は出てきませんよね。

キレイな言葉って何?

例えば・・・・

耳辺りの良い・・・・

聞いて心地良い・・・

力が湧いてくる・・・

そんな言葉がキレイに整えられたってヤツです。

より伝わるように

相手が情景を浮かべやすいように

自分の事のように捉えられるように

言葉を投げかける。

キレイな言葉だと人に伝わりやすいです。

そしてキレイな言葉は長くなりがちです。

大人はいいでしょうが

それ子供にはどうでしょうか?

続く

親子 コミュニケーション

過去~現在~未来と永遠のテーマ

コミュニケーションです、人や自然や動物や

様々なものと私達はコミュニケーションを取ります。

そして

毎年のようにこのコミュニケーションに関する新書が

星の数ほど出来てきます。

皆さんはコミュニケーションが大切な事だと良く理解しています。

では何故 この世の中にはコミュニケーションが

これほどまでに大切にされているのでしょうか?

コミュニケーションとは何でしょう?

「繋がり」ではないでしょうか。

人は一人では生きていけませんよね。

今に始まった事ではなく

ずーと昔から人は人と繋がって生きてきたんですよね。

氷河期のその前から

毛皮のパンツをはく前から

人は誰かと協力して

ご飯を食べていたんですよね。

「狩猟」 ですよね。

生き物を殺して食べるんですよね。

でも野生の生き物はとても素早くて強くて大きくて

一人では到底太刀打ちできませんよね。

一人じゃご飯にありつけないんですよね、昔の人は

だから

多くの人と協力して

獣を追いかけて

「一緒に掘った穴に獣を落としたり」

「一緒に獣を追いかけて疲れた所を叩き殺したり」

「一緒に罠を考えたりしたんですよね」

その原始人たちが

何人で生活していたか分かりませんが

少数で生きていたのでしょうね。

「一緒に狩をしてご飯を食べる仲間」

月明かりしかない真っ暗な夜の闇で

獣に襲われるかもしれない夜を

皆で過ごしていたんですよね。

時には火をおこしてみたり

穴の中に住んでみたり

一人では怖くて夜は怖かったでしょうね。

そう言う時代からコミュニケーションはありました。

言葉が生まれる前からありました。

・・

コミュニケーションは言葉だけではない。

それが分かりますよね?

言葉がない時代

それはうめき声かもしれませんね。

オラウータンやゴリラのような獣声?

言葉は無くとも

繋がらないと生きていけない時代

身振り手振り 目線や表情 体つきやうなり声を駆使し

「伝えた」んですよね。

「繋がる」為に

これがコミュニケーションです。

続く

子どもの頭をぐにゃぐにゃに柔らかく 単一価値の怖さ

子どもは親のいう事を真剣に真に受けちゃいます。

言い続けると冗談でも本気にし
本気になると訂正が中々聞きません。

悪口や愚痴は子どもが居ないところで言いましょう(笑

どうも 岩崎です。

子どもは子どもらしく成長するのが一番。

子どもの頃にしか感じれない感覚や

感性をいかに自由に伸ばすか、それが

親がして上げられることではないのだろうかと。

大人好みの大人しく聞き分けの良い子どもは

親からすれば手もあまりかからず楽かもしれない。

自然と出来る子どもも居れば

無理やり教え込んで大人しく親に嫌われない子どもになろうと

頑張る子どもも居るだろう。

身体は子どもでも中身は大人の真似事で

価値観を固定化し子どもらしい物の見方を養う機会を

なくした子どもは感性が何かわからなくなり

自由な発想が出来なくなる。

子どもが桃太郎の絵本を読んで

真顔で「サルと犬は敬遠の仲だから無理だよね。」とか

言い出したら全然子どもらしくない。

そういった感覚を持たない、感性を感じ取る事ができない

子どもに育ててしまわないように気をつけたい。

そして、良くも悪くも親子で同じ目標を

目指すのも注意を払いたい。

と、言ってしまうと語弊を与えてしまいそうだが

この場合の注意と言うのは・・・・

「親も子も一途に熱心に同じ目標に向かう事(受験等)」

親が子どものサポートであるうちは健全なのですが

同じ熱意で同じ目標に向かい、仮に

その目標に届かなかった場合、子どもの精神が燃え尽きて

何に対してもやる気を出せない子ども達がいるんです。

普通であれば親はもう一度頑張ろうや
お疲れ様次は違う結果が待ってるさとサポート

出来るのですが、一緒に同じ熱量を持って

事に当たっているのですから子ども心にも

大きなショックが与えられます。

注意したいのは同じ価値観で無くても良いという事。

受験に失敗していい

運動で失敗していい

みんなできる事もできなくていい

そんな価値観、感覚、感性がないと

燃える尽きたとき、心に余裕がないので

糸がぷっつり切れたように、宙ぶらりんになります。

一つの事に熱心に頑張る!その姿は必要です、大事ですが

親子の共通認識にしてしまい

同じ目標に同じ熱量をもって 事に当たるのは

同じ価値観の人を作る単一価値観の怖さでもあるのです。

終わり

子どもの頭をぐにゃぐにゃに柔らかく  単一価値の怖さ

どうも 岩崎です。

子どもの頃よく大人に言われていました。

頭でっかちになるなよと。

続き

子どもに必要なのは確かな知識や裏づけの論理は必要ないです。

と言うか

教えちゃ駄目だと思います。

そんな事よりまず

好奇心を持ったらすぐに実践できる土台を作っておく事

親が子どもが実践できるような環境に置くことが必要では

ないでしょうか?

例えば、走り回ると転びます。

高いところに登ると落ちる事もあります。

尖ったもので怪我をすることもあります。

いつかは人を傷つけてしまうかもしれません。

これらは幼児期に限らす

小学校中学校高校でも起こりえます。

自分が知らずして人の痛みを分かるわけありませんよね?

叩くかれると痛い

転ぶと痛い

この限度が分かるから子ども同士の遊びでも

限度が知れてるじゃないですか。

しかし、こう言う言わば当たり前の子どもらしい遊びの中で

経験できたものが近年では親が止めてしまう場合があります。

怪我しちゃ駄目

イタズラしたら駄目

高いとこ登ったら駄目と、駄目駄目づくし。

確かに駄目なものの基準は本人の経験則でしか

図れませんが、子ども時代に子どもらしく過ごす事を

禁止するほうが、駄目だと思いませんか?

続く

子どもの頭をぐにゃぐにゃに柔らかく   単一価値観の怖さ

どうも 岩崎です。

6歳の娘もそろそろ保育園を卒園する季節になりました。

いよいよ小学校です。

子どもの成長は嬉しいですね。

さて、子どもを取り巻く環境は家族像だけでもありませんよね。

地域や保育園幼稚園子ども園など社会性を身につける

為にも子育て環境に注意を持つ事が大事です。

社会性と書いていますが 、そんなかしこまったものでなく

子ども「らしく」 「遊べる」 空間があることが必要なんですよ。

幼児のうちは遊ぶ事が一番大事です。

勘違いしたら駄目ですけど「学習」させながら「遊ばす」のは

良くないですよ。

学習を目的に遊ばせるのは間違えてますよ?いいですか?

子ども「らしく」 遊ぶ事が大事なんですよ。

何故遊ばせるのが大事なのか・・・

それは「感性」を磨くためですよ。

感性は全ての基本です。

人の気持ちや自然との係わり合い 自分との対話 反省 喜びすべて感性です。

感性が乏しいと、心が貧しい子どもに育ちます。

子どもの絵本を読んだことはありますか?

絵本では実に様々な不思議な事がおきますよね。

星が喋ったり椅子が喋ったり

おにぎりが冒険にでたり

犬とサルとキジで冒険に出たり

現実ではありえない事ばかりです。

子どもがそれを見て

「犬とサルは敬遠の仲だよね?

「おにぎりはしゃべらないよ。

とか冷静に受け止めていたら

感性を受け止める余裕がなくなって

来ている証拠です。

子どもらしさが失われている証拠です。

子どもには本当の意味での 「事実」は必要ではありません。

躾や礼儀 社会通念上必要な事は教えないともちろんいけませんが(道路に飛び出ないとか)

何故なら「事実」を知ると~~~がそがれるからです。

これは子どもにとって非常に大切なことなんです。

それは「好奇心」です。

子どもは わからない なんだろう きになる みてみよう さわってみよう

と思って行動する原動力は好奇心。

この好奇心を駄目にするのが知識

子どもが子どもらしく遊ぶ必要があるのは

この好奇心や感性を伸ばす為

知識が入り込むと感性は固定化を始め常識を持ち始めます。

続く。